おちゃ的劇場型日記

社会不適合なのに元気な元文系大学院博士課程の現在・過去・未来。人によると波乱万丈らしい。

家人が40歳で初めて会社員になった話する。

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家人はいわゆる夢追い人で、30手前までフラフラしていた。

それこそ今都民のみなさんが使っている地下鉄掘ったり、世界で使われている武器を作るバイトをしたり、日雇いでお金ガンガンもらって、日がな飲んでくだまいたりとなかなかの人生であったそうな。
 
当時は景気もよく、引っ越しの日雇い行ったらお客さんがぽんと何万円くれたりもしたそうで。
その金で日本中旅したりと、まぁ自由な人であった。
 
ただ、頭はすごく良い。知識が豊富で人当たりもいい。間違いなく社会で活躍できる人だと思っていた。
それは身内の贔屓目ではないと思う。
 
そんな家人が30手前になってそろそろやばいと思ったらしく、大学に入った。
(そのあとも結局夢が忘れられず、ちびちび追ったりしていたが)
そして大学院に入り、何を思ったか起業してしまうのであった。
 
もちろんうまくいくはずもなく、自転車操業で自分で金を会社に貸してはアルバイトに勤しむ日々だった。
おいらは特にそれに文句を言うこともなく、大学院に通いながらアルバイトに励んでいた。(そのころはもう博士課程で、ほとんど学校には行っていなくてアルバイトが9割だったけど)
 
というのも、ビジョンは良いと思っていたので。
ただ、それをマネタイズするのはキツかったのだと思う。
右も左もわからぬ学生(つってもほぼ中年)からの起業。しかも技術系ではない分野。
そんな中でも社長たちが集まる会合に出させてもらったりして仕事を覚えたり、仕事をもらったりしていた。
 
だけどなかなかうまくいかなくて、結局その会社はたたむことになる。
その時家人は39歳だった。
 
就職活動をしたけれど、会社員としての職歴がゼロだった家人はどこも受からなかった。
1社、いいところまで行ったところはあったのだけど、最終でダメだった。
 
社員としてだけでなく、アルバイトすら受からなかった。
世間は厳しい、不条理に厳しい、とその時痛感して相当ショックを受けたのを覚えている。
能力なんて履歴書や数回の面接じゃわからないのだな、とも。そして、能力で見てはいないんだな、と。
会社員になっていない、いわゆる「普通の人」ではない経歴を歩むと、こんなにも世知辛いんだと。
 
そこで結局どうしたかというと、郵便局の仕分けのバイトになった。
郵便局の仕分けのバイトは、いわゆるスネ傷系の人が多くいたらしく、家人の経歴でも受け入れてくれたし、家人もそこにある程度馴染めたようだった。
 
もともと能力がある人なので、メキメキ頭角を現していき、仕分けの中でも重要な仕事も任されるようになり、社員への道も見えてきてはいた。
ただ、給料が安かったし、仕事の面白さはなかった。
 
40歳になった時、さすがに見かねた昔からの友人が、自分が居る会社に誘ってくれて面接してもらえることになった。
ベンチャーではなく何十年も続く社員数何百人規模の企業。
 
社長といきなり面接になり、その場で就職が決まった。
給料は新卒並で、待遇は契約社員
それでも、やっと人生で初めて会社員になることができた、とただひたすら感動した。
 

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でも書いたとおり、会社員になって安定した給料がもらえると、一気に生活が楽になる。
ただそれだけで、当時は嬉しかった。友人とその会社に本当に感謝した。
 
その恩を返すべくひたすら家人は頑張った。
その家人が今どうしているかというと、数年でむっちゃくっちゃ出世して経営側にまで行ってしまった。
 
自分の会社潰してるのにすんごい売るのがうまくて、赤字事業を黒字に立て直し、二事業部を黒字化させたそうな。
たまに億売ってくる。
変態である。
それを自分の会社でやれよとツッコミいれまくったけど。
 
起業でしかやれないこともあるし、会社員としてしかやれないこともある。
家人を見ているとそれがひしひしとわかる。
 
そして、いわゆる「普通」ではない道を歩む場合、人との縁がすごく大事だし、自分自身を売り物にして道を切り開くしかない。
家人のはわかりやすいサクセスストーリーだけど、そうでなくても諦めずに精をだせば、きっとどこかに生きていく道はあると信じる。
 
もしこれを読んでいるあなたが絶望に打ちひしがれていたとしても、その時こそ、新たな旅が始まるのです。